陶祖李参平窯
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陶祖李参平窯、十四代金ヶ江三兵衛の公式ホームページです。
李参平の軌跡
日本伝統文化のひとつ「有田焼」は韓国文化を基礎に発展・定着した代表的なものです。
その歴史を語る上で必ず出てくる「李参平」ですが、その存在を裏付ける文献が数えるほどしかありません。

まずは、佐賀県重要文化財に指定されている「肥陽旧章録(多久家文書一部)」。そして、初代三兵衛の戒名が記された龍泉寺の「過去帳」。金ヶ江家に代々伝わる四本の古文書「金ヶ江家文書」とあげられます。

ここでは有田焼と共に歩んできた李参平の生涯を、参考文献「金ヶ江家文書」の内容を中心にご紹介いたします。

 

 
 
李参平の像
李参平(初代金ヶ江三兵衛)の像

初代 野口勝山 作

 
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古くから伝わる工芸品のほとんどは中国・韓国を経て発展させたものだといわれています。そういったもののひとつである「有田焼」は韓国からの技術を基礎に中国様式を取り入れ、日本独特の美意識によって発達した代表的な伝統工芸品です。そして、その発達には朝鮮陶工たちが欠かせない存在でした。

 1592 年・ 1598 年、豊臣秀吉によって行われた「文禄・慶長の朝鮮出兵(壬申・丁酉の倭乱)」は、日本陶磁史にとっては、大きな発達のきっかけとなりました。朝鮮出兵の引き上げと同時に何百人という職人・陶工を日本へ連れ帰り、各領土内で技術発達などのために情報を提供させていたと伝わっています。

 西日本を中心に定着した窯業関係の朝鮮陶工といえば、有田焼の李参平(佐賀県)・薩摩焼の沈当吉(鹿児島県)・上野焼(高田焼)の上野尊楷(福岡県)・高取焼の高取八山(福岡県)・萩焼の李敬(山口県)などが挙げられます。その中でも焼物の神様として尊ばれ、今でも親しまれているのは有田焼の「李参平」です。

 李参平の子孫である金ヶ江家が保管する「古文書」によると、李参平は初め鍋島直茂公の佐賀城下で過ごします。後に多久長門守に預けられ領内で築窯しましたが、思い通りの焼物が出来ませんでした。それから良い陶土を探し求めて佐賀領内を巡り有田西部へたどり着きます。そこで何度も試作を繰り返した後に有田東部に泉山磁石鉱を発見、 1616 年日本で初めての『磁器』が誕生しました。大量の磁石鉱の確保と燃料の木材調達・水の利便性から上白川地区に天狗谷窯を築き、現在の窯業のシステムに近い「分業化」を確立していきます。それから次第に「有田焼」は日本全国へ供給・世界への輸出と、その名を知られるようになります。李参平はその功績を称えられ出身の錦江島の名をとり、日本名を「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と名乗る事を許されました。

 

 

金ヶ江家継承

分業体制を確立し、有田の行く末を見守りながら1655年8月11日初代三兵衛がなくなります。
同町内にある龍泉寺の過去帳に戒名が記されており、有田焼発祥の舞台となった上白川・天狗谷窯の近くに墓碑も創建されました。

このことは当時の日本ではとても稀な事で、最上級の手厚い庇護を受けていたことがわかります。

そして、約350年後の現在まで李参平の日本名「金ヶ江三兵衛」と李参平の生涯を記した「金ヶ江家文書」を継承していくこととなります。

金ヶ江家系図
初代

金ヶ江 三兵衛(李参平)
朝鮮忠清南道金江人帰化して「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と改む
明暦元年(1655)八月十一日卒
「月窓浄心居士」

二代 三兵衛 (始 与助左ェ門) 
三代 三兵衛 (始 惣太夫) 
享保九年(1724)二月卒
四代 三兵衛
明和元年(1764)十月卒
五代 三兵衛 (始 惣太夫) 
明和六年(1769)十二月十九日卒
六代 惣太夫 文化三年(1806)十月卒
七代 三兵衛 天保六年(1835)七月十九日卒>
八代 惣太夫
嘉永元年(1848)八月二十一日卒
九代 三兵衛
万延元年(1860)四月二十一日卒
十代 儀三郎
明治十七年(1884)五月二十一日卒
十一代 米 助
明治四十二年(1909)十月二日卒
十二代 儀 平
昭和二十五年(1950)十二月七日卒
十三代 義 人
十四代 省 平
肥前陶磁史考 参考
 
初代の墓石
初代の墓石には「月窓浄心居士」と刻まれています。1959年天狗谷古窯の近隣に上半分が欠けている状態で発見されました。 〔有田町歴史的史跡指定〕
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